ためる

2013.4.26
文・写真:飯名尚人

「こんなに晴れているのにねぇ」「辻さんは、ちゃんと傘持って来たんだね」「夜は嵐になるようですから、早めにリハーサルが終わるようにしよう」といった冗談交じりの雑談をしながら、上星川の駅から大野一雄舞踏研究所に向かう。風は少し強いが晴天。「忍ばずの女」のリハーサルは、研究所をお借りしている。古いアップライトピアノもあり、この作品のリハーサルには完璧である。この古いピアノがまた良い音を出す。建物自体も天井が抜けていて、三味線も良く響いて音に深みが出る。音の良いスタジオなのである。
15時に上星川駅改札で待ち合わせ、出演者全員参加のリハーサルである。早めに終わるなどと言っていたものの、結局19時までみっちりと行った。途中から天気のことなど忘れ、各々「忍ばずの女」の挑みどころを練っては、通し稽古で体や音、空間、雰囲気のアタリをつける。大野さんのお弟子さんはいつも静かに稽古を見守り、休憩になると新しいお茶を出してくれる。Cozyな贅沢な時間と空間。(その日のFacebookにリハーサルの様子の写真をアップしたところ、フランスのダンスアーティストから「Lovely Cozy place!」というコメントがされていた。彼女はこのスタジオのことをもちろん知っていたけれど、過去に訪問することができず残念がっているようであった。Cozy。ああそうだ、Cozyな場所だ、と僕も思った。)スタジオに到着したとき、大野家の白くてまん丸の猫が玄関先で一生懸命草をかじっていた。

リハーサルが終わり、駅に到着すると、制作プロデューサーの藤澤さんは反対方向へ、ピアノの辻さんはタバコを吸ってから帰りますということで、花柳さん、西松さん、僕と3人が横浜行きの電車を待つ。上星川駅は急行が止まらないので、2、3本の急行やら特急をやりすごし普通を待つ。「急行と普通ですと、横浜から10分も違うんですって」と花柳さんが教えてくれた。途中の駅で乗り換えることも出来るけど座っていきましょう、ということで、普通に乗ってそのまま横浜へ。途中、花柳さんが「横浜で食事でもしましょう」とおっしゃり、「私が出しますからね、いきしょういきましょう」と笑顔で付け加えた。花柳さんは、普段から少女のようにニコニコとよく喋り(←悪口ではない)、日常の些細な話から芸事の話まで屈託なく話されるので、親戚のような身近さを感じる。「私はまだまだ勉強が足りませんから」といい、僕のことを「先生」などと呼ぶので、なんともあちこちムズ痒いことになり、さらには稽古場でも「演出家の先生のおっしゃる通りにやりますから、なんでも注文つけてくださいな」とおっしゃるので、おおいに恐縮しながらも僕はあーだのこーだの注文を付ける。僕が「やっぱりここにも踊りを入れましょう」などと思いつきで言うものだから、花柳さんも「そうですか、はい、わかりました」と受け入れてくれつつ、帰り道「宿題が増えた、宿題が増えた」といいながら歩いているのがなんとも可愛らしい。それを聞いて西松さんは「飯名さんは、こうみえて、結構無理難題を言うんですよ」なんてちらりっと意地悪な目つきでニヤリと僕を見ては楽しんでいる。

花柳さんに日本料理をごちそうになりながら、今日のリハーサルのこと、この作品のこと、参加することになった経緯などを伺う。「ためる」という言葉を教えてもらった。「溜める」「貯める」ではなくて、「ためる」(「め」にアクセントがつく)だそうだ。「ためる、という言葉でいうんですが、こう、心にためる、というか、そういうことが必要なんです。踊りだけじゃないかもしれません。ためるということが大事なんですね」「大野先生の舞踏を今日目の前でみて、先生もためてらっしゃいますね、いろいろと心の中に」と言った。まさに踊りだけではないが、芸事は単に上手下手という尺度で判断できるものではない。人生やらなにやら背負ってきた個人史が芸を磨くわけであるから、そのことについて上手も下手もないのであり、そう考えるとむしろ芸術の世界というのは、下手、不器用な人の方が多いのではないかと思う。ごく一部の天才を除いては。僕は天才の芸術が苦手である。あまり興味がない。どこか薄い感じがするのである。「芸のことがようやく分かるころには、もう体が動かなくなってしまう年齢になってしまってねぇ。こんな簡単なこと、もっと若いうちに気がつけばよかったのに、なんて思ったりするんですよ」と言う。西松さんも師匠である西松文氏について「師匠もそう言ってました。分かったころには声がもう出なくなってる、って。そういうものなんですよねぇ」と、もちろん僕は西松文の顔も姿も音も知らないが、師匠のぽつりと言った一言をそっと耳に入れている西松さんの姿が風景として浮かんだ。
「ためる」というのは、面白い言葉である。それは「憂い」「儚さ」というものを想像させる。ただ「貯める」「溜める」のとは違い、心のどこかで暖めて生かしておくような印象もある。同じ踊りを踊っていても「ためる」ものが在る踊りと無い踊りとでは、どんなに素人目で見ても分かる。音楽もそうだし、なんでもそうかもしれない。「でも、それを観客に見せようとする踊りは、自己満足になってしまうんですね。ですから自分の中でためるんですね」と花柳さん。悲しく見せようという表現は自己満足なのであって、悲しく見えてしまう、ようにならないといけない。大野さんの舞踏もそうである。どこか滑稽な動きがよく出てくる。見ていてニヤッとしてしまう。しかしご本人は真剣そのものであり、観客を笑わせようとしているわけではない。だからこそ面白く、憂いがあり、儚いのである。花柳さんが「大野先生も、ためてらっしゃる」という一言はなんとも実に深い言葉であった。
あんなに晴れていたけれど、夜には一時激しい雨が降ったようであった。駅ビルで食事をしてそのまま地下鉄に乗ったので、上手い具合に雨に遭わずに済んだ。