おんなのぼくしさん

エッセイ #1

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TEXT 飯名尚人

 

舞踏の写真
ハプニングからナラティヴへ

 『おんなのぼくしさん』は、今貂子と稽古場を映像で記録することからスタートしている。当初テーマはなく素直に撮影することだけを目指したが、映像作家の私はカメラを持ちながらどうやって撮影するのが正しいのかをいつも考えている。
 
 ここ数年は、二人の写真家に注目している。ひとりはウィリアム・クライン(1926年 - 2022年)、もうひとりは阿部淳(1955年-)。

 ウィリアム・クラインは1961年に東京で、土方巽、大野一雄、大野慶人の三人を1つのアングルに収めた。新橋の裏路地から銀座四丁目の交差点まで、舞踏家三人は踊りながら歩き、それを写真家のクラインが連写する。写真集『TOKYO』には、この様子が4点掲載されている。しかし実際は500枚ほどのショットが残っており、その約500枚のショット全てが『ダンス・ハプニング 1961年6月』(出版社:かんた)として一冊の写真集となっている。この写真集を見ると、クラインが連写しているのがわかる。フランスのウィリアム・クライン事務所に「ダンスハプニング」と書かれたケースがあり、「TOKYO」には掲載されていないフィルムが発見されたそうだ。大野一雄舞踏研究所の溝端俊夫氏(現・NPO法人ダンスアーカイヴ構想)の企画によって時系列を整え一冊の写真集となった。
クラインの写真を見ると、舞踏家の身体を撮った、というよりは、舞踏家の存在のある東京を撮った、という印象だ。クラインの都市スナップシリーズとして「ニューヨーク (1956年)」「ローマ (1956年)」「モスクワ(1961年)」そして、この「東京 (1964年)」がある。発表は1964年だが撮影のために来日したの1961年。東京オリンピックを目前とした東京の風景である。当時最新のニコンの広角レンズや望遠のミラーレンズを使って撮影されている。(ニコンレンズの歴史は  https://www.nikon-image.com/enjoy/life/historynikkor/ で詳しく紹介されていて面白い。)1961年の新橋の裏路地は、土の道路で水溜りもあり古い家が立ち並ぶ。銀座方面に出れば、景色は一転、今はもう銀座にはない路面電車が大通りを走り、きらびやかなビルが立ち並ぶ。人々が集まってきて、三人の舞踏家がケッタイな仕草で踊っているのを、目をギラギラ、きらきら、ニヤニヤして撮影の様子を見ている。もしかすると身体の大きいアメリカ人のクラインがカメラを構えて追いかけていくのを面白がっていたかもしれない。
 
 写真家阿部淳は、80年代から90年代にかけ白虎社の写真を撮影している。アジアツアーに同行し記録としての写真もあれば、演出されたフィクションとしての写真もある。「国際ダンス映画祭(2022年)」で白虎社特集を組んだときに、阿部さんにインタビュー取材をお願いし、その時に当時のいろいろなことを教えてもらった。阿部さんはフィルムの白黒写真しか作らないので、現像、プリントも自分のアトリエで行っている。綺麗に整理された白虎社のフィルムとプリントを見せて頂けた。舞台の記録写真なのに舞台最前列でストロボが焚かれている。大須賀さん(白虎社のリーダー)から、ストロボで撮ってくれと言われたそうだ。「写真に撮られるのが好きだった」。白虎社の舞台は、イベント的、サーカス的というか、窮屈な劇場の約束事(暗転で始まり暗転で終わり、観客は静かに舞台上で練習の成果を見ているという約束事)を取っ払って、どこか明るく楽しい。半ば屋外のような劇場で繰り広げられるアジアツアーでの白虎社の舞台は、土と草と人の匂いが充満されているようで、その空気感が写真からも受け取れる。そこで披露される踊りは相当な訓練を通じ緻密に構成されているが、デタラメにも感じさせるエネルギーが噴き上げている。白虎社は自らを「明るい暗黒」と言い、「芸能と芸術の串刺し」を目指し、内向的で極私的な身体の吐露ではなく、ディズニーのようなファンタジーをも感じさせるオープンな物語を有している。物語としての理屈よりもイマジネーションを優先させた世界観の構成は見事だ。阿部さんは、ツアーに同行していたバリ島で夢を見たそうだ。その夢をデッサンとしてノートに記し、大須賀さんに「こういう写真を撮らないか」と提案したところ面白がってくれ、現地で材料を調達し衣装を作り撮影したのだそうだ。こうしてはじまった白虎社の写真は、ファッション写真のようにも見えるし、一枚の写真に物語を詰め込みナラティブに作られた「Make a photo」となった。先述したクラインの写真はスナップ写真として都市と舞踏が撮影された「Take a photo」と言えるし、ハプニングを楽しむ要素が多い。阿部さんの試みは、撮影のための台本が書かれ、衣装を制作しロケーションを選び、ナラティブな舞踏を写真で残していった。
 
 山海塾は1980年にヨーロッパへ、白虎社はアジアへと表現の場を見出していった。当時、舞踏団はそれぞれに各地に拡散することをミッションとしていたようである。フィリピンでは刑務所慰問パフォーマンスという前代未聞の活動をやってのけ、ドキュメンタリー映像としても残っている。2022年12月に台北市美術館で80年代の台湾でのアバンギャルドカルチャーについての展覧会があり、阿部さんが当時台湾で撮影した白虎社の写真が大きく展示された。台湾ではダンス映画も撮影されており『ミラクルレポート』というシリーズでビデオ作品が残っている。国際ダンス映画祭のWEBで白虎社特集を発見したキュレーターから問い合わせがあり、阿部さんを紹介することができ、阿部さんからオリジナルプリントのデータを借りることができた。台湾の人々が白虎社が台北で活動したことを記憶し、思い起こし、当時を知らない人もこの展覧会を見て白虎社を知ることになる。
 
 ウィリアム・クラインは土方巽、大野一雄、大野慶人の三人を一つのフレームの中に収めることに偶然にも成功した。クラインはこの三人が誰なのかを正確に認識し意図して撮影したかは不明だし、おそらく詳しくは知らずに撮影したのだろうと思う。とはいえ、土方巽、大野一雄、大野慶人が同じ画面の中にいることは奇跡的であり、写真として残ったことは重大である。阿部淳は全盛期だった頃の白虎社を撮影し、しかも舞台記録写真だけでなく、写真家の演出による物語写真を多数残した。
 
(2023年1月)