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(エピソード)と(リミット を巡る

0℃
喜屋武英莉



 
小説で読んだ夏、音楽で聴いた夏、映画で観た夏、己で経験した夏

数え切れないほど繰り返した夏は
どんな夏だっただろう

この作品は1人の少女の夏を見つめる



衝動的で破壊的

少し離れ眺めてみれば気付く事ができるのに
夏の間はその異常さに気付かない

暑さか、眩しさか

夏は私たちの理性を溶かしてしまう
そんな季節だ

この部屋には彼女の繰り返してきた夏たちが
重なり合い、犇めき合っている


これはまだ序章に過ぎない

この部屋を飛び出して
彼女はどんな夏を過ごすのだろうか

作品解説
 
 今回、映画祭のテーマを聞き一番に思ったことは、ちょうど撮影期間にあたる「初夏」をひとつ大きなテーマとして取り上げたいということだった。しかし、漠然と「初夏」「夏」といった大きなイメージばかりが先行し、自分がどういったものを作りたくて、夏にしかない面白さとは何なのか、という部分が全然思い浮かばなかった。そこで行き詰まった私は、夏をテーマにした作品を片っ端から漁ってみることにした。今思えば、この時すでに私も、夏という大きな力に動かされていたのかもしれない。夏を舞台に繰り広げられる話たちはどれも、多種多様な顛末を迎えるが、物語からエピソードまでそのどれもが「衝動的で破壊的な何か」を孕んでいるように感じた。どうして、全然違う人たちの作品なのに「夏」をテーマにしただけで、衝動的で破壊的なものになっていくんだろうか。作中の人物だけでなく、作っている当人すらも夏の影響を受けてしまっているのではないだろうか。夏の何がわたしたちをそうさせるんだろうか。それが、この作品の出発点だ。
 「衝動的で破壊的=本能的」というふうに考え、私たちが夏に溶かされているのは「理性」だと考えた。そこで本作品では、溶かされる理性のモチーフとして「氷」を用いた。また、『0℃』で融解点を迎え水と氷が共存している様が、初夏から本格的な夏に向かう中で理性が溶かされ、本能と鬩ぎ合っている様みたいだと思いタイトルをつけた。そういうものが感じられる作品になっていればいいなと思う。
 それから、私はこの部屋空間を「初夏」として捉えた。彼女が普段生活している部屋と酷似している、けれど違う場所だ。気づけば彼女はこの場所にいて、気づかないうちに理性を溶かされていく。綺麗に纏ったメイクもネイルも、本能の前に崩れ去り、彼女はより満たされようと本能に忠実になっていく。そして溶け切った理性とともに本格的な夏へ、この部屋の外へ、飛び出していってしまうのだろう。

喜屋武英莉
東京造形大学 映画・映像専攻在籍
 
現在は大学で映像表現について勉強中。また作曲に少し興味があり、音楽についても学んでいる。珈琲とチョコレートが好き。

島袋乃碧
立教大学社会学部社会学科在籍

現代詩や小説を中心とした文芸活動、演劇やダンスといった多方面で活動している。それぞれの分野でコンクールや全国大会、世界大会での受賞歴を持つ。今後もそれぞれの活動の中で新しい表現と出会い、生み出すことを目標としている。


批評

 
 『初夏から夏に向かう中で、理性が溶けていく』を伝える映像表現を中心に考えていこうと思う。まず、前提として作者がこの映像で伝えたいことが『夏に理性が溶 ける様』だということを知っている状態で観賞したので、伝えたいことと映像をどうにかつなげようとする働きが自分の中で起きていた。それを踏まえた上で、映像の中心にある溶けていくコップ、女性の動作、音楽を聞き踊り出す、乱れたメイクのショットでどういった効果が生まれているのかを考察する。
 まず溶けていくコップが映像の最初から最後にかけて存在していることで、時間の経過、という演出がなされている。夏を彷彿させる氷を使うことで夏に理性が溶けていく様も演出されている。そこで氷=理性で考察してみると、それに並行して女性が乱れていく並行モンタージュになっていると感じる。間で氷を頬張る。理性を食らうということを考えられるが、氷を食べることで理性を保とうとしているのか、それとも能動的に理性を砕きにいっているのか。どちらなのかが自分にはわからなかった。
 次に、女性の動作についての考察をする。メイクをする、マニキュアを塗る。この動作の意図は外部との干渉のように感じた。外装を整えるのは他者がいるからだと考える。また、部屋のカーテンを開ける動作も同様に開放的という印象から、自分の心を開く、身を委ねるなどの意図を感じる。スマホを弄る、気にするも他者を感じる。
 音楽を聴き踊り出すシーン、踊るという行為が、理性とは離れている行為に感じる。本能に忠実で、魅力的に映る。脳が溶けてただ耳から聞こえる音楽に身を委ねて踊る、といった印象を与える。アクション繋ぎによって繋がれたカットは、リズムを生んでいる。楽しいことが早く過ぎて行くように、短くカットを行うことで疾走感を感じる。勢いに身をまかせ踊る女性の姿が夏に理性を失い、破壊的なことをしてしまっている印象を感じる。壁にもたれる数秒のカットがそれを際立たせている。
 乱れたメイクのショットで終わる。整えた外装が剥がれ落ちていることで夏の終わりを感じさせる。最初にメイクをして、それが最後に乱れる構成は、彼女が外と触れ合ったことで傷つく、失うといった印象を受ける。
 最後に、この映像を自分なりにまとめると氷が溶ける演出によって理性が溶けるということ、一夏の出来事であること。その中で、女性が他者と関わり理性を失い本能に身を委ねて快楽に落ちた後に何かを失うというストーリーを感じた。
 

笹本陽介
東京造形大学 映画・映像専攻在籍
高校時代に映像作品「甘え」を制作。現在、短編映画を制作中。演劇と映画を扱った劇団を作ることを目標としている。
 

 

 
この作品について、私がまず感じたものは白である。
彼女が身につけているもの、食べ物、部屋、入ってくる光まで、あらゆるものが白い。
だからこそ、彼女が自分に施した、黒と赤の化粧が目立つのである。
この作品は、彼女の化粧から始まる。それとともに、コップに氷が落ちていく。
彼女が顔に化粧をのせていくように、コップに氷がのせられていく。
二つの鏡に映る彼女は、彼女の複雑な内面を映しているように見える。
コップがいっぱいになった時、彼女は化粧をやめて鏡から去る。
この時、彼女の心のイメージだと思われた氷の入ったコップが、画角に、つまり現実に現れる。
彼女はクッションに身を預けた後、爪を塗るためにマニキュアを運んでくる。
その時、離れた場所にあったはずのコップも目の前に持ってくる。
爪を塗る前、彼女はカーテンを開け、部屋の中がいっそう白で満たされる。
爪を塗り終わった後、彼女はあらゆるものに身を預ける。
床に、机に、壁に身を預け、冷蔵庫に辿り着いた彼女は、氷を一つ口に入れる。
彼女は、冷蔵庫の中の真っ白な食器を机に運び、白いりんごや、真っ白なプリンを食べる。
口紅はスプーンにつき、口をぬぐい、取れていく。
彼女は席を立ち、ベッドで寝転がり、顔をこすり、ますます化粧が剥がれていく。
彼女は起き上がり、音楽を聴き始め、立ち上がって踊り出す。
コップが映されるが、とうに氷は溶けている。
踊りは彼女が突然座り込むまで続く。
彼女はベッドに座り、窓の外を眺めている。
彼女の化粧は擦れ、顔中に広がり、落ちてしまっている。
私は、氷を彼女の原点にある力のようなものだと感じた。
氷はいつも、彼女が何かを行動する時に現れる。
化粧をする彼女に合わせて、コップの中に落ちて行き、爪を塗る、あるいはカーテンを開ける時に目の前に現れる。
食事を運ぶ前、彼女は氷を口に含み、氷の前で食事を取る。
踊る彼女とともに、氷の溶けたコップが映される。
ただ、氷は時間とともに溶けてしまう。
だから彼女はクッションに身を預け、床に倒れ、壁に寄り掛かり、ベッドに寝転がり、踊りながら座り込み、顔に施された化粧は溶けるように崩れていくのである。
 

水野宙
東京造形大学 映画・映像専攻在籍
大学入学後、動画編集に目覚め、Instagram用の動画作成などの仕事を請け負っている。その他にデザインやアニメの勉強もしており、現在、自主制作アニメを制作中。

 
 

 
 この作品は女が鏡の前で化粧をするところから始まる。このシーンがこの作品の印象的なシーンであり、作品全体の調子といったものが掴める。暗く無機質な空間の中、鏡に映る女の肌の色、口紅の赤色が際立っている。
 次に氷のシーンについて。氷からは暑さや夏といったことが連想できるが、画面は冷たい色相で構成されている。そのためその場の温度感、空気感が想像できない。それが女の無表情と相まって狂気すら感じる。
 そして、この作品は一定のリズムで進んでいく。際立った長回しのショットがないことや黒味、氷から感じる時間の経過からこの作品のリズム感といったものを感じる。一見緊張感のある作品のようだがゆったりとした呼吸のタイミングがあるようであった。
 次に動きについて。この作品は全体的に動きが多い作品ではないのだが、無機質な空間の中女だけが動くため静と動が対比され些細な仕草や動きに目がいく。寄りのショットが多いということもあり動きがより強調されている。また、この作品は多くが手持ちのショットで構成される。このことは作品の人間味を増す効果があるとも言えるが、静と動の対比を多少なりとも打ち消すようで少し勿体無いようにも感じた。
 後半の女が踊り出すシーン。動くというと普通は人間っぽさや生き生きした様子を連想するだろうが細かな動きで構成されるこの作品においては踊るという大きな動きは異質なものに見える。それは衝動的、破壊的なものにも見える。
 この作品全体を通して大きく「生」と「狂気」という二つの印象が強い。色、動き、撮影方法などから感じる「生」とこの作品の文脈、ものとの関係性から生じる「狂気」により人間の危うさといったものを感じる。起承転結のある物語や感動的なストーリーを期待している人にとっては物足りないかもしれないが、解釈の余地がある作品なので考えることや人間観察が好きな人にとっては楽しめる作品かもしれない。
 

赤池那央貴
東京造形大学 映画・映像専攻在籍
高校時代は勉強に邁進。現在は大学で映像、身体表現、またその関係について学んでいる。