Fragment
LI MEIYING
中国生まれ
東京造形大学写真専攻三年生
写真の物質性の二次創作をやっている
作品解説
あの夏、見た花火の音、爆発音がずっと耳に残っている。しかし、その日の花火がどのようなものだったかは、はっきり覚えていない 。どんな色だったか、どのように広がっていったか、連続か個別か、どのくらい続いたか。花火はほとんど同じものだったので、これらを思い出すのは本当に難しいかもしれない。ある日見た花火の姿を、カメラや映像の力を借りずに、頭で正確に記憶できる人は何人いるだろうか。花火は結構な回数を見るので、誰も気にしないようだ。そんなことはいっぱいある。
私たちの記憶は、経験的な記憶を除けば断片的につながっていて、連想や外部からの働きかけによってしか思い出せない。何かをどのような方法で覚えていくか、枝葉末節のどの部分を覚えていくか、楽観的にまた悲観的に覚えていくには、自分の主観によるものだ。そんな主観的な記憶は人を変える。花火がどんなものか、ハサミがどのように使われているかは誰もが知っているが、私たちが思い出すのは、毎回見る花火の具体的な姿ではなく、友達と海に行って花火を見たときの楽しかった思い出や、ハサミで自分を傷つけてしまった思い出かもしれない。人が覚えているのは具体的なイメージではなく、そのイメージによっての連想、又は感じられたことだ。そんな感覚が一人一人に溢れていた。その感覚が、人間をそういう人間にしているのだ。
鼎談
CHEN XINYI: 映画に音と画面は別々ではなぜですか。
LI MEIYING: 画面がない部分は、音だけで、人が何かを想像できる。映画の前の音は全部普通の自然の中にあることで、人はその音を聞いて、その音に合ったイメージを自分の頭の中で想像できる。イメージは人それぞれだ。その音は客観的で、人の想像は主観的である。多くの人にその音への思いや記憶を呼び起こす。後ろの音のない映像も同じで、映像を見たときに、見ている人の思い出や共感や想像をできるかもしれない。見ている人は、そこに出てくるはずの音を想像したり、似たような思い出を思い出したりするかもしれない。
XU QINGYUE: この映像に最も印象に残っている記憶はどれですか?どのような感動を与えてくれたのでしょうか。
LI MEIYING: 一番印象残ってるのは雪山を登る時に風が吹き、舞い上がった雪が陽光に照らされて黄金色にキラキラ輝いた。私が育ったところでは、こんな大雪は見たことがなかったし、夢のような美しい雪景色を見たことがなかったので、最初は美しいと思ったの。あれから何度も何度も雪を見ましたが、一番美しい雪は、あの瞬間だと思う。中国の古い詩に「曾经沧海难为水,除却巫山不是云」というのがあって、この瞬間の感じをはっきり表現している。その意味は、測り知れない広くて深い海を見た人には 他の所の水にもう興味を持ってない、云蒸霞蔚的巫山の雲を見た人にとっては、他の所の雲が比べ物にはならない。
XU QINGYUE: 音や映像を記録することができるですが、記録できないものはなんですか。
LI MEIYING: 正確には記録できないのは、感覚だ。ある時の感覚を思い出すために押すスイッチのような装置は、この世に存在しない。感情は受動的な存在だと思う。また、映像や音を見ると、直接的には記録されないけれども、何かを通して伝える必要があるような、そんな気持ちや感覚を思い浮かべることができるとも言えるね。この作品を作った時に言いたかったのもそういうこと。逆に、何か感覚を感じると、昔やっていたことの記憶も開かれてきる。例えば、プルーストエフェクトに、ある匂いを嗅ぐと、その匂いに関連した記憶を思い浮かべるよね。あるいは、おいしいものを食べたとき、何か思い出を思い浮かべるかもしれない。
XU QINGYUE: あなたにとって、記録による映像と写真の違いはなんですか。
LI MEIYING: 写真は一瞬の美しさを切り取るのが得意、映像は出来事の完全なプロセスや断片を記録できる。個人的には、実はフ映像の方が好きなの。映像は、音や全体の様子、途中でスマホを持つ角度、カメラの追い方など、さまざまなことを記録することができるからね。こうすることで、より実感が湧くのだ。
LI YANXUAN: モノクロを使う理由はなんですか。
LI MEIYING: 典型的に映画らしい手法で、思い出の出番のイメージを伝える。
LI YANXUAN: なぜ良い思い出ばかりで、悲しい思い出がないのか。
LI MEIYING: 私は楽観主義者なので、覚えていることは良い思い出で、つらい気持ちを思い出すと気分が悪くなるのが苦手なの。そして、多くの辛い思いは、時間が経つとどんどん麻痺していくだけ。