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『Gap』

大澤拓実

 

 
Text:スマートフォンにはインカメラ(通称:インカメ)が付いている。普及する前の機種には付いていないものもあるが、今では当たり前のように付いていて、自撮り写真やビデオ通話を可能にしている。街の隅では画面に映る自分の髪型をチェックする人もいて、それほどまでにレンズとプレビュー画面は接近している。しかし、レンズと画面が重なることは今のところない。それどころか、スマートフォンの画面が年々大きくなることで、画面の中心からレンズまでの距離はむしろ広がっている。そして、画面に映る自分の視線が、本物である君の視線と重なることは決してない。もし視線を合わせようとレンズを覗き込めば、今度は画面内の自分の視線から君が目を逸らす羽目になる。レンズと画面の僅かなズレの中で、イタチごっこするしかない。イタチごっこと言ってもそれは永遠じゃない。どこかで突然(必然)にデッドヒートへ突入する。イタチごっこにゴールを予感した直後、僕らはこのレンズとこの画面の狭間にある無理難題にはじき出される。


大澤拓実
1997年4月22日生まれ
2018年 東京造形大学 入学
 


柴垣竜平
ミュージシャン

1998年1月22日生まれ

略歴
〈主な展示、受賞歴〉
1998   愛知県名古屋市生まれ
2019   個展「in the ground」spazio rita、名古屋
2020   平山郁夫奨学金 授与
2020   YouTube生配信作品「スタジオエッフェル塔ニューヨーク」
2020   YouTubeチャンネル「御前の魂は蠅より高く翔ぶ」
2021   東京藝術大学美術学部先端芸術表現科 卒業

「御前の魂は蠅より高く翔ぶ」
https://www.youtube.com/watch?v=ZhUAA0lGS_Q
カメラと作品、作品と生活、関係性に混乱した大澤は柴垣竜平の元へ行く。

メディアに石投げた

 
大澤 生活の中を作品にしていて、その中で身体表現が入ってくるわけなんだけど、カメ ラって常に持ってるじゃん。そこから映像作品を撮ろうと思ったときに、どこまでの生活と制作を選べばいいのかなって思ってさ。竜平君はあの時※どうしてたの。
※柴垣竜平は映像作品「御前の魂は蠅より高く翔ぶ」(https://www.youtube.com/watch?v=ZhUAA0lGS_Q)の中で、バイクに乗り日本を縦断・横断した。
 
 
柴垣 北上した時はとりあえずカメラをずっと回してた。カメラを胸につけて。あんまり 演出とかしない方がいいんじゃないかと思って。ただ量が膨大すぎて、全部見返したんだけど、それがめちゃくちゃ大変だった。だって一週間ずっと回してたら、それ見るのに倍速にしても一週間の半分かかる(笑)。
その分面白いこともあった。中部に行った時は変えた。
僕はいつか自分が持つかもしれない未来の子供へのビデオメッセージとして、子供の代わりにカメラを持って旅したんだけど、カメラとの向き合い方と居ない子供との向き合い方が一致してた。北上の時は、子供が何考えてるかとか子供にとってどうかは気にしなかった。中部は「親としてどうなんだろう」と思った。
 
大澤 カメラの扱い、子供の扱いとしてか。
 
柴垣 子供が居ないことを良いことに、返答がないからさ。ずーっと自分の気持ち話してて、だから中部では話すのやめようと思って、映すことに注視した。子供に話しかけなかったから中部は少し怖くて、変なこんもりした山にのぼった時に服脱いでカメラを置いて、置いたカメラに向けてめちゃくちゃ石投げつけた。中部では子供(カメラ)に対して僕は何かをもたらさないといけないと思ってた。何故なら僕は親だから。その「なんかやらなきゃ」の極地が暴力だったんだよ。石を投げるっていう。てゆうことはあったね。
 
大澤 それは結果的にどうだった。撮りながら作品という意識を持ちつつ編集のことも考えてカメラを置いたときの自分の振る舞いって、生活なのか制作なのかっていう発見はあったのかな。石を投げたときとかさ。
 
柴垣 それはあった。自分のプライベートがなくなってっちゃうし、単純にすごい自分のこと公開してたから、そのストレスもすごかった。ずっとカメラがあって、Youtubeにもあげてたし皆に見られてて、さらけ出してて、悩ましくて。石投げたのも、なんで俺がこんな思いしなきゃいけないんだ。お前のせいだ。ってメディアに石投げた。
 
大澤 そうだよね。見せてるって能動的なつもりが、見られるって状態が続くわけだもんね。そうゆう状態を続ければ続けるほど、どっちが原因か分からなくなっていくしね。
 

 
極論、人が思えば作品

 
柴垣 あのビデオメッセージを作品ととるかどうかは見る人次第だと思うんだよ。そうなんだけど、俺は今音楽やってて、夏に出すアルバムを制作中なんだけど、アルバムっていう凄い流通してるフォーマットがあって、その枠に決めて作ってる。で、そうなると悩みがなくなる。
 
大澤 アルバムっていうフォーマットを選ぶことで、自動的に作品になるってことね。
 
柴垣 でも、この世で初めて作られたレコードは作品じゃなかったと思うんだよ。なんか技術の試しとして録音して一枚できたみたいな。一番最初に撮られた映像もさ。
 
大澤 工場から人が出てくるやつ。
 
柴垣 あれは作品かって言われるとさ。僕ら美大生は見る機会あると思うんだけど、あれ見たときに作品としてっていうか...。
 
大澤 歴史的な技術として見ちゃう。
 
柴垣 だからメディアアートの一つ目って曖昧で、結局定着していくと2時間の映像撮ると映画になっちゃうみたいな。
 
大澤 映画らしさっていうのは作られながら出来ていくしね。そう考えると竜平のYoutubeの映像も映画館で上映してしまえば、(確実に)作品になるってことだよね。
 
柴垣 そうそう。最終回は講堂で上映してて、人もいっぱい見てて、こうなったら作品だなって。だから、作品かどうかは末端のところで決まると思う。テレビで放映されたらとかそっちかな。でも、同時に作家が作品やってんのか日常なのか分かんないっていう心理には凄い関心がある。
 
大澤 客観的に見て作品かどうかに関しては、それがどうパッケージされるか、作品としてパッケージされれば作品になる...。
 
柴垣 人が思えば...極論。でも心のどっかでそれがどうでもいいと思ってるところがある。この世で最も面白い映像、悲しい映像、センチメンタルな映像って作品じゃないだろうなって。たぶん作品として切り取られているものではなくて、どっかにある(笑)
俺がこの世で最もセンチメンタルな映像としてあげてるのは、YouTubeで見たんだけど、カートコバーンの奥さんが自作の曲を部屋で弾いてて、それに合わせてカートコバーンが赤ちゃん抱っこしてるみたいなやつ。これなんて俺が見た映像の中で一番センチメンタルな映像だ。

 

大澤 そうだよね。やっぱ映像だからなんだよね、でもそれって。
 
柴垣 彫刻とは訳が違う。
でもパフォーマンスの作品とかもそこに観客がいるかとかカメラがあるかとかが大きな違いを生むじゃん。だから、こうやって話してるのもカメラ置いておけば作品になっちゃうかもしれないじゃん。
 
大澤 確かにね。作品にするためにいろいろやるけどさ、作品になったら自分から離れるよね。結局そうなっちゃうしっていう心理もあるかも。感傷的な意味合いではなくて。