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a shed for substance
30'18"
アーティスト:栗原一萌
キュレーター:中山 輝(映画・映像専攻領域)
actor:MOTE KURIHARA MARI OKAMOTO
cam/film ed:MOTOE KURIHARA
director by MOTOE KURIHARA
a shed for substance
30'18"
Artist: Motoe Kurihara
Curator: Hikari Nakayama
actor:MOTE KURIHARA MARI OKAMOTO
cam/film ed:MOTOE KURIHARA
director by MOTOE KURIHARA
作品解説
個⼈の⾁体に全てが委ねられた⾝体にまつわる短い映画
⼥が⼀⼈、⼆⼈と、ひとつの部屋の中で存在している。
そのうちの⼀⼈の⼥は外が明るい時間にライトの位置を調整したり、窓を段ボ ールで塞いだり、物を全て袋に⼊れたかと思えば全てを出したりする。匿名性のある街が映されたかと思えば、すぐにでも出て⾏けそうな最も⾁体に近い街も映される。ナプキンを変えたり、上半⾝裸でその場所にただ存在したりする。
その映像を⾒続ける約 30 分の時間が全ての個⼈に平等に流れる。その時間の蓄積は個⼈に委ねられたものであるというところがこの映画の凄みではないだろうか。
何をみて、何を考えて、もしくは何を⾒ないで、何を考えないでいる時間は⼈それぞれに訪れる。
ライトを調節するシーンも「明るい時間にライトの当たる位置を調節する、という意味のないことができるほどに時間がある⼈物なのだ」という捉え⽅も「気にくわないことは納得できるまで実⾏する⼈物なのだ」という捉え⽅もできる。その多様性を受け⼊れてくれる。というか、そう感じなければならないという説得⼒はなにも存在しない。みているこちら側の⾝体に委ねられたものだ。
なぜ⼈間は服をきて街中を歩くのか。そのことは社会的なものか、個⼈的なものなのか。私が感じ取った問いの答えはこの映画の中に何も存在しない。けれど、たくさんの問いが存在し蓄積してゆく。その問いというものも、具体的な何かをこちらへ投げかけるようなことではなく、⾃主的に問うという⾏為のためのエネルギーみたいな漠然としたものである。こちらへ投げかけ続ける問いを⾏うためのエネルギーに気づいた時、認識した時、理解した時、必ず何かの思考がはじまる。それは完全に主体的なものであるからこそ、⾃分の哲学や美学をもう⼀度形成するようなものであり、社会とつながる個⼈という領域を再建築することのように感じる。
それぞれの個⼈の⾁体に全てが委ねられた⾝体にまつわる短い映画である。
A short film about the body in which everything is left to the individual's body
Several women are present in a single room.
One of them adjusts the light when it's still bright outside, closes the windows with a tiered bowel, puts everything in a bag and takes it all out. Anonymous city is shown. A town that feels close enough to be accessible is shown. The women change their napkins or simply stay there without their clothes.
The 30 minutes spent watching the film are equal for all individuals. The great thing about this film is that the interpretation of time's accumulation is left to the individuals.
What do we see and think about? Or what do we not watch and what do we don't think about. Everyone is equal watching this film.
The scene where the lighting is adjusted, one might think, "If that person is adjusting the position of the light in that brightest hour, she must have tons of spare time." Or it can be seen like "She is someone who does things until she is satisfied". This film embraces this diversity. There is no persuasive power to force a viewpoint. The view is up to the body of the observer.
Why do people wear clothes while walking on the streets? Is it a social act or a personal act? The answers to the questions I perceive are not presented in this film. However, it accumulates many questions. The energy is vague as if it expects the audience to think voluntarily, rather than asking questions directly. When the viewer realizes, perceives, and understands the energy of the film's style of questioning us, some kind of thought is sure to happen. Having questions within is to reform one's own philosophy and aesthetics, to reconstruct the relationship between society and oneself.
This is a short film about the body, in which everything is dependent on the individual's body.
作者から・・・
彼らは独⽴した個でありながら、社会として存在している。
無数の"わたし"と無数の"あなた"が時間を共有し、影響を与え、相互に結びついたり離れたりを繰り返す。
こうした経験から紡がれていく記憶の幸せや悲しみに、彼らは⾃らの⾝の⼀部分を置いていき、彼の記憶は彼だけのものではなくなっていく。
個は膨張していく。
そして社会の、宇宙の⼀部に漂っていく。
忙しなく動き続けるわたしたちは、⽬撃した記憶、経験でしか、⽬の前に漂う光景を⾒ることができない。
こうして完成していくわたしたちのこと、わたしたちは無⾃覚だ。
無⾃覚な先⼊観が何かを⾒逃しているかもしれないという事実の⽋⽚が刻々と、ひっそり、積み重なっていく。
わたしたちは、⾃らの経験をなげうって、⽬の前の事象を、「ただ、⾒つめる」ということがどれだけできるのだろうか。
そうして存在してみるということは、どういうことなのだろう。
わたしたちの⾝の置き場は、悲しみでも苦しみでも幸せでも、漂い膨張し漠然たる宇宙でもなく、わたしたちの⾝体だ。
作家プロフィール
栗原⼀萌 (くりはらもとえ)
1999 年 神奈川県出⾝
東京造形⼤学造形学部デザイン学科映画映像専攻
「ふみことすずこ」(映像作品・2018) /「あの⽇から遠く離れて」(⾳楽作品・2018) /「部屋と太陽」(⾳楽作品・2019) /「redclothes」(映像作品・2019) /「しょうじょ」(映像作品・2019)
対談 栗原⼀萌 × 中⼭ 輝
キュレーターと監督の関係性について。
中⼭輝(以下中⼭)「まず、⾃⼰紹介からやっておく?対談だから(笑)」
栗原⼀萌(以下栗原)「えっ」
⼆⼈「(笑)」
中⼭「じゃあ。、もとえから。(笑)」
栗原「栗原⼀萌です。1999 年⽣まれの 21 歳です。よろしくお願いします。」
中⼭「キュレーターを担当させていただく、中⼭輝です。よろしくお願いします。」
栗原「お願いします~。」
中⼭「キュレーターと監督の関係性が⾒えていた⽅がいいのかなと思って、どんな⼈がキュレーションをするかというのがすごく影響すると思ったから、私たちがどういう関係なのかを軽く紹介しておこうか。」
栗原「はい。同じ⼤学に通う同い年、同じ専攻、専攻の中でも仲が良い・・・」
中⼭「(笑)」
栗原「そういうこと?(笑)」
中⼭「そういうことだよね。割と仲のいい関係だからこそ、(簡単に)共有できちゃう⾔葉とか考えとかが出てきて、⼆⼈だけで認識して進んでいくようなものになるのはよろしくないのかなと思うので、第三者がいるような閉じた空間にならないような⾔葉選びをしていきたいね」
栗原「話す側の意識もそうだし、聞く側の意識もそうだね。」
中⼭「そうだね。」
この映画は脚本でいう第三稿のようなもの?
栗原「私の年齢が20歳の時に制作したもので、この作品ができるまでの流れが⾃分の中であって。⾃分が作りたいものの脚本でいう改稿していっているみたいな感じで、3つ⽬のバージョンで、1(「redclothes」)も2(「しょうじょ」)も作品として完成させるところまでしている。それを経ての今回なんだけど。」
中⼭「へ~知らなかった。」
栗原「そうなの。1つ⽬は 1 年⽣の時の⼤学の有志の上映会を開いたときに向けて制作したもの、作品として完成させる⽬的みたいなものは上映会にあって。」
中⼭「うん。」
栗原「それは、出演は⾃分ではなくて加えて3⼈の出演者がいて」
中⼭「今回のこの映画は監督⾃⾝ともう⼀⼈の出演者がいて、監督してだったけど、その時はカメラの向こう側にいたってことだよね?」
栗原「そう。作る側として。私がカメラとして撮影していたんだけど、その時に⾃分の作品っていうものが⼈に⾒せることによってわかったことがあって」
中⼭「うん。」
栗原「⾃分で全部演出できちゃう。というか、細かい演出の部分を含めてやっと意味があるものになるというか。どうしてもそういう作り⽅になってしまうところがあって、そういうことが⾃分の中でわかってなかった時期だったし、その作品を演じることよりも作ることに意味を感じてたから、私は出ないということを決めていて。」
制作する上で「⾁体を借りた」感覚。
中⼭「⼀つ⽬の作品は、完全に⾁体として別の⼈にやってもらうことに重点があ った?」
栗原「そうだね。それで出てもらったんだけど、セリフがあってモノローグ的な語りがメインなもので。脚本を割とちゃんと書いて読んでもらったりしたけど、どうやって喋ったらいいかわかりづらかったみたいで。それに加えて演出とかをしていって完成となるから、そのプレセスに⼈を介して演出したりすることが難しくて。どうしても私の中では⾁体を借りた、みたいなことになってしまったというか。」
中⼭「うん」
栗原「演じてもらった⼈の中でも満⾜感とか納得感みたいなものが得られなかったように作り⼿の⽴場としては思ってしまった。それを⼤学の先⽣にみてもらったりした時に、これはやっぱり⾃分ででるべきなんじゃないか、⾃分の⾝体の表現を使わないとここで描こうとしていることって描かないんじゃないかというところにたどり着いた。」
全ての出発地点は殻の話。
栗原「最初に描きたかったことがカラの話で」
中⼭「カラ?」
栗原「卵の殻とかそういう殻。」
中⼭「あ~隔たりというか?」
栗原「うん。中⾝が柔らかいものについている硬い殻。その時期、結構社会に出て、外に出て感じることの悩みというか、すごく踠いていて、外で存在しているものと⾃分との隔たりみたいなものをうまく作れなくて、外の刺激がそのまま⼊ってくることがあって、上⼿く⽣きていけていない感覚みたいなものがあって。⺟親はそれを知っていたから、私よりも客観的な⽴場で私と外の世界を⾒れていて。『あなたはゆで卵の薄い⽪だけで外で存在しているようなものだから外からのトゲみたいなものに傷つきやすいというか、傷つくことができてしまう。硬い殻を纏っていたら同じ刺激でも跳ね返すことができたりかもしれない』と⾔われて、その殻の表現がしっくりきて、そこから殻を纏わないで粘膜だけで⽣きていくことってできないのかな?私はできるという⽅向性で作った。」
中⼭「うん。」
⾝体を巡る映画
中山「⾝体を巡る、ということでこの作品をキュレーションしているんだけれど、私が思う⾝体を巡るっていうのはこの映画が投げかけてくる何かを問うためのエネルギーみたいな部分で、私個⼈の⾝体性を感じるんだけれど、監督側の⽬線として⾝体を巡るみたいなつながりはあったりする?」
栗原「すごくある。⾝体が⼼の置き場所というか、⾃分の居場所。精神と⾝体があった時に精神の置き場所は⾃分の⾝体である、っていうことが撮影してる時からずっと⾃分の中にあったことで」
中⼭「だから、タイトルもそういうこと?」
栗原「そうそうそう。」
中⼭「このタイトルはどういう意味でつけたの?」
栗原「事象の置き場っていう」
中⼭「事象の置き場?」
栗原「そう、ここでいう事象の概念っていうのは⼈間だけじゃなくって、たとえば⼈間が⾒ている光景。⽬撃事象っていう⾔葉が⾃分の中であるんだけど、その⽬撃事象の置き場⾃体も⽬撃されている場所・対象⾃体にあって⽬撃している私⾃⾝の中にあるんじゃない。だから、⾃分の⾝の置き場が⾃分の⾝体であるように、全てのものがそうである、ということ。あと、独⽴した個っていうのを描きたいというのが根本にあるから、こんな⾔葉になってる。」
オンライン上映をすることについて
中⼭「この作品において、オンライン映画祭である弱みと強みみたいものってなんだろう。私はこの 30 分は⾒ていられると思ったんだけど、オンラインってスマホとかパソコンとかで⾒るからすぐに消すことができる拘束⼒のない環境だけど、この映画ってそれぞれの個⼈の場所、⾃分と対話できる場所で⾒て欲しいというのがキュレーターとして思うことなんだけど、すごくこのオンラインで向いているのではと同時に難しいところだなって。」
栗原「うん。⾃分と対話できる場所って本当に⼈それぞれだから、それがまだ⾒つけられていない⼈にとっては難しいのかもしれないけど、⾃分の都合のいい場所に持ち込めるっていうのは良いところだね。私は電⾞の中とか、周りに⼈はいるんだけど⾃分の中に⼈はいない時間、いい浮遊感がある場所。」
中⼭「他者の⽬線を感じないみたいな」
栗原「それぞれのそういう場所で⾒て欲しいよね。」
中⼭「私が⼀⼈の家で、がそういう場所だからそういうことを想定してたけど、⼈それぞれだよね。」
栗原「うん。」
中⼭「弱み・・・。弱みは強制⼒だよね(笑)私的には 30 分の時間を積み重ねることが⼤事だと思う。ただ30分間⾒続けるということが⽣きてくる性質だと思うな。」
栗原「結構⼤きいよね、そこ。」
中⼭「携帯いじっちゃったりするもんね」
栗原「まあ。でもそれでもいいのかもしれない、無理して⾒るものじゃないから。⾃分が⾒れる範囲で⾒れればいいし、その範囲内で受け取れるものが全てというか。」
中⼭「そうだね。でも、この映画にとってただ⾒続ける時間っていうのがキーではあると思う。蓄積されていく時間を体感して欲しいよね」
栗原「そうなんだよ。。」
“ただ⾒つめる”ということの定義
中⼭「今回の映画で意識したことはある?」
栗原「う~ん・・・映像になったときに、その映像を“ただ⾒つめる”ということが可能かどうか。かな」
中⼭「“ただ⾒つめる”こと?というものの監督個⼈の定義があるなら知りたい。」
栗原「⼈は無意識に、⾃分の持っている記憶とか経験とかでものを⾒ているってことがあると思うんだけど、それって ⽬の前の事象そのものを⾒ていることにはならないという気がしてて。それは⾃分の価値観のための⾏為になってしま っているんじゃないか、って。(そういうものを全て除外して)その対象だけを" ただ⾒ている"というか。そういう意味で⾒るということができた時に、⾒ることができたって いう経験値が⾃分の中に存在して、そういうことが思いやりになる瞬間がある って私は感じている」